憂鬱メロン

音楽とサッカーが好きです。備忘録。

社会人と感受性

新社会人となり、はや3ヶ月(ほぼ4ヶ月)。

矢のように過ぎる時間とはこういうものかと感じる今日この頃。

職場では、自分が加入したことで、一人人間が増えたにもかかわらず、厄介ごとは増えているのではないか?と思ってしまうほどに自分の至らなさ・焦りを感じている今日この頃。

休日が来ても、いつの間にか一日が過ぎ、ああ明日も仕事か…と侘しい気持ちになる今日この頃。

 

要するに、何が言いたいかというと、今の自分には余裕がない。

これは、時間的に忙し過ぎて、遊びとか自己啓発等々ができないという訳では決してなく、日々の活動が単純に精神の容量を超えているということを意味している。

日々の生活を潤った、生き生きとしたものにするためには、お金や時間の余裕だけではなく、精神的な余裕も必要なのだと、最近は特に感じる(お金や時間の余裕がなければ精神的な余裕もなくなるということもあると思う)。

自己啓発的な取り組みはもちろん、遊びにしたって「自発的な」ものの場合は、始めるのにエネルギーを要するし、余裕がなくては始めるのは難しい。

ただ、部屋の掃除や溜まった洗い物を綺麗にするのが面倒臭く感じるのと同じように、やるべきことを後回しにしていると、あとでとんでもないことになるので、毎日少しずつ無理をするしかない。

こうやって無理をする生活を続けていれば、「無理」の範囲が広くなるのだろうかと淡い期待も抱いているが、多分そんなことはないのだろう。このままの生活を続けると、10年後も20年後も同じように少しの無理をどうにかこうにか我慢して生きている気がする。これは必ずしも悪いことではないのかもしれないが、そういった想像をすると、なんとも悲しく、寂しくなる。

なぜなら、余裕のない生活の中では、感受性が恐ろしいほど鈍くなるからだ。遊びや音楽鑑賞、読書や勉強に至るまで、色々な方向に張っていたはずのアンテナがポキっと折れてしまったが如く、興味ややる気が起きなくなってしまうのだ。

そういった娯楽のない余生を過ごすのはさすがに嫌なので、なんとかこのループから抜け出さなくてはいけない。

ではどうするか?

恐らく、何処かのタイミングですごく「無理をして」この螺旋から抜け出そうと努力をしなければならないのだろう。若く、体力に余裕のある今やらなくては、いつそれができるというのだろう!

 

 

でも、まだ職場で最低限のことすらできてないのに、他のことにまで色々と手を伸ばすのはなぁ…とも思う(甘え)。

そんなこんなで、仕事でも遊びでもなんでもござれの、血の代わりにレッドブルが流れてそうな人を見ると、なんとも眩しく感じる今日この頃ですが、私は私なりに、自分に合った無理を探り探りやっていきたいと思います。

 

それにしても、スーツが暑い!夏よ、早く過ぎてくれ!!

 

 

今日の一曲

 

 


Row Row Fight the Power!

 

今の俺には螺旋力が足りねぇ!!

来たる新生活に向けて

学生として過ごす期間もあと3週間ほどとなり、社会に出るにあたって期待よりも不安が日々募る今日この頃であります。

新生活において、媚びない人間になりたいと思う。他人にも、自分にも。

もちろん、社交辞令的なものはまともにこなすつもりだし、特別排他的になろうとも思わない。ただ「こうありたい」自分に近づくために頑張ることのできる人間でありたいなと思う。

最近、学生生活を振り返ったときに、後悔がないと言えば嘘になるけれど、もし今の自分が過去の自分にアドバイスをおくることができても、当時の自分はそれなりにいっぱいいっぱいで、今と大して変わらない生活をしていたのではないかと思うことがあった。悔しいというよりも、仕方ないなというふうに。

こういう諦念を交えた考え方、こういう踏ん切りのつけ方というのも生きていくには必要なのかもしれないとも思った。また、これが大人になるってことなのかもしれないなと理解しようとした。

ただ、将来この考えを当たり前のように受け入れた自分が存在するのではないかと考えると、背筋が寒くなった。今まで「こうありたくない」と考えてきた自分像に近づいていく未来は遠慮したいと思った。臭いものには蓋をして、その上でなんとなーく生きるような人生にはしたくないなと思った。

「こうありたい」と思える自分像に近づくことは簡単なことではない(さらに言えば、辛く苦しいものですらあるだろう)けれど、そこに向かって足掻いている自分のことが、多分、私は好きだ。ある意味で、私の「こうありたい」自分とは、辛いものから逃げずにもがくことのできる自分なのかもしれない。

 

自分で書いていて青臭い文章だとは思ったけれど、こういうものに私はなりたい。

 

 

今日の一曲

最高の応援歌!!


The Pillows LOSTMAN GO TO BUDOKAN Live #3 MY FOOT

 

 

マジョリティの認識についての話

 タイトルが難しい感じになってしまいましたが、この間言語学を専攻する教授から面白い話を聞いたので、ブログに書こうと思いました。思い出しながら書くので、時系列や情報の正確性については保証できませんので悪しからず…

 

ガウディの建築をはじめとした観光資源が日本でも有名で、近年では独立問題についても取り上げられるようになったカタルーニャですが、そこで暮らす人々によく使われる言葉として、カタルーニャ語というものがあります。

このカタルーニャ語は、1936-75年フランコ将軍が独裁をする間、公的な場での使用をずっと禁じられてきました。そのため、この言語を母語とする人たちは、家の中や、または親しい友人たちと話すときにそれを用いるくらいで、当時は「内の」「私的な」言語として人々に認識されていました。反対に、カスティーリャ語スペイン語)は「外の」「公式な」言語としての認識が広まっていました。

月日が流れ、フランコの独裁は彼の死によって終わりを告げましたが、時期を同じくしてカタルーニャで「あなたはカタルーニャ語を使えますか?」という旨の質問が盛り込まれた住民調査があり、そこで「Sí.(はい。)」と答える人の数は非常に少なかったそうです。

しかし、数年後に同じ質問がなされたところ、百万人単位でカタルーニャ語話者が増えていたそうです。学校教育による影響だけでは考えられないような伸び率であったため、言語学者たちは調査対象となった人々が、「私たちの使っているカタルーニャ語カタルーニャ語だったんだ。」と認識できるようになった結果、このような数値の増加につながったのだろうと予測しました。

つまり、「私的な」言語であったカタルーニャ語は、それまで公の場で使われることはなかったため、その話者たちは自分が話している言葉がカタルーニャ語だということに確信を持てずにいました。しかし、独裁後に公的な場での使用が可能になり、カタルーニャ自治政府の市民への働きかけなどが実を結んだ結果、カタルーニャ語が「外の」「公的な」言語としても人々の間で認識されるようになったのです。

ですから、言語政策を行う際には、言語の教育体制を整えることに加えて、その言語を話すことができる人に話しても良いということを認識してもらい、実際に使用してもらうことが大事なのだそうです。

 

話は移りますが、私たちは日常的に日本語を話しています。そして、自分たちの話す言語が日本語だということを疑うことはありません(それを疑うまでに自己省察している方がもしお読みでしたらごめんなさい)。それは何故でしょうか?

理由の一つとして、学校教育の場で「日本語というものはこういうものだよ」ということを小さい時から体系的に教えられているということが挙げられます。考えてみればカタルーニャ語の例も日本語の場合も納得することができますが、マジョリティ側の論理が正当で、当たり前だとされている世界では、こういったことに疑問を抱くこともなかなかできません。

これは言語に限った話ではなく、自分たちが当たり前だと思っていることにも、実は何らかのバイアスがかかっていて、それゆえにその判断において行われた行動には罪悪感といったものが生まれにくいのではないかと思います。自分たちがマジョリティであった場合、私たちの当たり前がマイノリティに押し付けられているかもしれませんし、傷つけてしまっているかもしれません。ですから、本当に相手のことを考えるのならば、まずは自分自身を疑わなければならないのかなと思いました。

 

 

今日の一曲


Qomolangma Tomato - Through Your Reality

就職活動の憂鬱

就職活動がキツい…

 

何がキツいって、ESの「学生時代に一番打ち込んだこと」、この項目を埋めるのがキツい…

 

これは、高校時代は部活など、何らかのものに入れ込んでいたのに、大学生になってやることがなくなった人あるあるかもしれないけれど(所謂燃え尽き症候群というやつか)、書くことが本当に思い浮かばない。

 

私は、大学生になってから、サークルにはよく顔を出しているし、アルバイトもした、評定も悪くない、そして留学までしたけれど、高校時代の一生懸命さと今の自分の頑張りを比べると、どうしても今の頑張りが、貼り付けの偽物のように感じてしまう。

当時ほど打ち込めることがなく、何でも「それなり」の努力でクリアできてしまう。勉強も人間関係もなんとな〜く済ましてしまって、その場をやり過ごすのには何の問題もないけれど、後になって振り返ってみると、あの期間の自分は何をやっていたのかと呪いたくなるほど、自分の中に残っているものが少ない、あるいはまったく無い。

一応、ポイント毎に頑張っている(つもりでいる)のに、打ち込んだことに対する判断基準が高校時代のそれになっているからか、自信を持つことが、なかなかどうして難しい。

自分は、一つの事柄に集中することに関しては、それなりに自信を持っているけれど、そもそも、あまり器用では無いので、大学という開かれていて、何をしてもいいという環境にあまり馴染めなかったというのはあるかもしれない。

 

また、環境に期待しすぎていたというのもあるかもしれない。

「大学に行けば、薔薇色のキャンパスライフを送ることができる」、「イギリスに留学すれば、英語が話せるようになる」といったように、結果は、ある程度環境に付随するものだと思っていたけれど、実際は自分で行動しなければ、友達は100人できないし、バイリンガルマルチリンガルにもなれないと、去年やっと実感した気がする。

結果は行動についてくるという、当たり前のことに気づけただけでもよかったと考えるべきなのか?とも思うけれど、それにしてはあまりにも高い勉強代だったなー、と今になって思うのであった。

 

 


まともがわからない

Goose houseを聴く人間とは仲良くなれそうにない

内容はタイトルの通りです。

 

年始のゴタゴタやら試験対策やらで、何かすべてがどうでもよくなり、頭を空っぽにしてGOING STEADY銀河鉄道の夜Youtubeで聴いていたんですが、関連動画で表題のグループのサムネイルが目に留まり、再生回数の多さを見て、見てみることにしました。

 


銀河鉄道の夜/GOING STEADY(Cover) 

 

鳥肌が立ちましたね。悪い意味で。(カメラ目線…)

 

音楽は好き嫌いが分かれるとは思いますが、これはちょっと受け入れられませんでした。

この曲は、峯田があの曲で、あの声でガチャガチャ歌ったから思春期の若者の胸を打ったわけで、こんなにきれいな、こんなにきちんとしたものじゃ断じてねぇ!!!と思うんですよ。

「青春は甘酸っぱい」の酸っぱさが、泥と一緒に、部活後の男子高校生のユニフォームに染み付いた、酸っぱい匂いから来た説を支持する私としましては、どうしてもこのカバーを受け入れられないのです。そしてそんな、酸いも甘いも一緒くたになったのが青春で、臭っさくて、汚ったない、消し去りたいような過去があるからこそ、青春はキラリと光ると思うんですよ。

 

ところで、この文章を書いていて、高校時代のある友人を思い出しました。彼はとてもピュアで、顔がよくて背が高く、尚且つ友人思いで性格まで◎という、絵に描いたようなイケメンでリア充(好きな音楽はファンキーモンキーベイビーズ)だったのですが、私は、同じ穴の狢と言いますか、彼とよりも、口が悪ければ彼女もいない、内面に鬱屈としたエネルギーを充填させたような人間と一緒に過ごすことを好んでいました。

たぶん理由としては、私が彼に共感できなかったことが一番だったと思います。イケメンの悩み話を聞いても、「へぇ〜、すごいな俺にはわかんないや」とか、「お前にも悩みがあるんやな…」ぐらいしか返す言葉がありません。私はイケメンでもなければ、性格も良くないため、彼の立場になって物事を考えることはとても大変なことでした(というか不可能でした)。

 

そして、それと同じように、Goose houseの銀河鉄道の夜にも共感できないのです。6分14秒もリア充のキラキラしたした青春を直視できないのです。

恐らく、Goose houseやファンキーモンキーベイビーズを聴く人たちは、とてもピュアで、(私からすれば)キラキラした青春を過ごしている(過ごした)人なのでしょう。私にはこういった人の考えていることは分かりませんし、逆に言えば、彼らも私の腹の底にある感情を理解することは難しいはずです。

そして、だからこそ、私はこの動画を受け付けないのでしょう。「私たち側」にあると思っていた曲を、「あちら側」の人がカバーしたことで、自分のことを分かったような気になられたのだと感じたのかもしれません。

 

 

そういうわけで、Goose houseを聴く人間とは、本当の意味で分かり合うことができないだろうし、仲良くなれないだろうと思うのです。

 


GOING STEADY 銀河鉄道の夜  ライブ

 

 

 

キミの心の"ブラック・ピーター"

思うところがあったので、今日の午後にNHKEテレで放送された、教育番組の国際コンクールのグランプリ日本賞を獲得した『キミの心の"ブラック・ピーター"』という作品について書きたいと思います。

内容は、NHKのページから引用した、以下の通りです。

黒塗りのメイク、少しおどけた姿でサンタクロースとともに歩くブラック・ピーター。オランダのクリスマスには欠かせない伝統的なキャラクターが、社会を二分する議論となっている。植民地時代から続く人種差別の名残なのか。それとも伝統行事の中の悪意のない慣習なのか。この番組は、オランダ人の心の中に潜んでいる植民地時代からの差別意識をあぶり出そうという試みだ。近くにいる人たちに容赦なくインタビューのマイクを向け、公園では自転車の鍵を壊す黒人に対する人々の振る舞いを撮影する。そして、オランダの人たち全てに問いかける。クリスマスの行列の中にいるブラック・ピーター。それはあなたの心の中にある隠された差別意識ではないのですか?

 

www.nhk.or.jp

 

残念なことに、途中からの視聴となってしまいましたが、「無意識下の差別」に焦点を当てた作品だったのではないでしょうか。内容は非常に示唆に富んでおり、「伝統的」に、また、子供の頃から「当たり前」に行われていた行事が差別に当たるのかどうかを判断する基準が、当事者たちとその外の人たちでは全く異なることが示され、「なんとなく」の感覚で差別をする主体になりうるという危険性が感じられました。

 

非常に興味深い内容だったため、放送後に未視聴部分を補完しようと、Twitterで未視聴部分の内容を調べたところ、『公園に停めてある自転車の鍵を壊して盗む行為主の人種の違いによる周囲の反応の違いを調べる実験』が気にかかりました。

(結果としては、白人は通報されず、黒人は通報されまくるという結果になったようです。)

 

なぜこの実験が気にかかったのかというと、以前動画で見たことのある、似たような実験を思い出したからです。内容は、黒人の男の子と白人の男の子がお金を貸してくださいと頼んできた時の街の人(白人)の反応の違いを明らかにして、人種差別の現実を示そうとするものでした。

(結果は前述の実験と同じようなものでした。)

 

こういった調査では、「差別を受ける黒人」と、「差別をする(悪い)白人(≒私たち)」という構図が成り立つかと思います。

 

しかし、私は、人種差別問題を、「白人vs有色人種」という構図で捉えるのではなく、「被差別者vs差別を生む場」という構図で捉えるべきなのではないかと思います。なぜなら、大きな差別が小さな差別を引き起こしている、というのが私の考えであるからです。

個人の人種差別的な性格に反省を促しても、それらの差別を生む原因となっている差別について追求しないのでは、永遠に差別は無くならないでしょう。

 

たとえば、黒人による犯罪率の高い地域で、上記のような調査が行われていたとします。すると、数として、黒人に対して差別をする人が多く出てくるでしょう。そして、その差別は一部の急進的なレイシストを除いて、不安に端を発していると考えられるのではないでしょうか。もしそうであれば、肌の色は、差別する際の「判断基準」ではあっても、「原因」ではありません。(勿論、この差別が悪くないとは言いませんが。)

この場合の「原因」は、個人間に存在するのではなく、個人ともっと大きなもの(企業や社会など)との間に存在するのではないかと思います。食べていくことができないから盗みをはたらくのであれば、なぜお金を持っていないのかということに着目すべきですし、黒人が職や学を得られにくい境遇にいるのであれば、まずそれを是正するのが差別撤廃のための第一歩だと私は考えています。

 

長々と書きましたが、結局何が言いたいかというと、単純に、映像に出てくるような差別主義の白人disをして、自分の正義感を満足させても世の中は全くよくならないんだということです。

単純化されたものをそのまま受け取ることは簡単ですが、そうならないようにしたい!と思った年末でした。

 

追記:『キミの心の"ブラック・ピーター"』の本筋からは大分ずれてしまいましたが、この作品は、誰もが差別意識を持ち、差別問題の加害者になり得るという、「認めたくはないけれど、認めなければならない事実」を、一方的に示すというよりも、悟らせるような構成で伝えていて、とてもためになるものだったと思います。再放送があったらうれしいのですが、どうだろう…?

久しぶりに、好きな音楽。

留学中に、自分の考えることや感じたことを文字にして残せたらいいな、という備忘録的な目的で始めたブログですが、気づいたら留学生活は終わっていて、初回の投稿から約8ヶ月も経っています。

改めて、自分の継続性の無さを感じるとともに、こんなにも時間のかかる作業を続けているブロガーの皆々様は本当にすごいなあと感じ入っています…

 

さて、そんな私が何故ブログの更新をしようと思ったかということの理由ですが、一つは通っている大学の冬季休暇が近づき、割と暇になってきたからで、もう一つは、新たに好きな音楽グループができ、それを紹介したかったからです。

 

spangle call lilli lineというグループです。

Spangle call Lilli line - Wikipedia

 

好きな曲


SCLL - a portrait

 

このグループの曲は、留学中に辛いことがあった時や、行き詰まった時によく聴いていて、好きになりました。

落ち込んだ時に聴く曲って、ハイスタみたいな「うおー!」ってなるような曲を聴く人と、ムーディだったり、沈む曲を好む人とに分かれると思うんですよね。私はどちらかといえば前者だったわけですが、spangle call lilli lineはこの式に何故か当てはまりませんでした。

ゆったりとした曲調ですが、暗い気分になるわけではなく、外国にいながら、実家のコタツに入っているような気分になれ、落ち着くのです。

 

活動期間もかなり長く、未だアルバム数枚分の知識しかありませんが、これからコツコツと彼らの作品を集めていこうと思っています。

LIVEも行ってみたいのですが、本数が少ない上に、東京開催が多いので、どうにかならないんでしょうかね。

 

 

今回はこれにてお終い!