憂鬱メロン

音楽とサッカーが好きです。備忘録。

Progate、始めますた

タイトルの通り、Progate(プログラミングの基礎を学べるサイト。有料会員プランあり)に登録しました。もちろん今は無料のコースで進めています。

 

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(※画像はProgateの紹介用のもの)

いざ始めてみると、今こうして利用しているはてなのサイトの仕組みなんかが、ほーーーんの少しだけ理解できるようになって、ちょっと楽しい。ほんのちょっと視点が変わるだけで見えているものもガラッと変わるってことはよくあるんだけど、多くの場合、視点を変えるまでは他の視点があるってことにさえ気づくことすらできないものだと思っているので、将来的に、このプログラミングというものが自分の視点を変えるきっかけになればいいなあと思う。

まあ、バリバリのプログラマーになってやるぜ!という野望を持っているわけでもないので、まったりゆっくりマイペースで進めたいとは思います。数学苦手だけど、頑張るぜ!

 

prog-8.com

 

(代表者の人たちがみんなめちゃめちゃ若くて笑った。同年代でこうして起業とかしている人を見ると素直に感心する。俺は何やってるんや、みたいな…)

 

www.youtube.com

SCLLが気持ちよく聴ける季節がやってきた!

ところで、YoutubeでSCLL、ストレイテナーtoeの楽曲のマッシュアップ作ってる人何者なんですか… 完成度高すぎてビビるので、是非そちらも検索してみてください。

versus企業体質

新入社員として働き始め、はや6ヶ月目に突入した。最近では、蝉の声もいつの間にか収まり、朝晩に肌寒さを感じることまである。スーツで出勤している身としては、ありがたいことこの上ない。


最近、自分の身の周りで退職という選択をする人がポツポツと現れている。

例えば、つい先日同期入社の一人が仕事を辞めた。理由は、希望としていた業務とはかけ離れた部署に配属されたからだという。

私は、退職した同期と特に仲が良かったわけではないので、彼女がどれほど悩んでいたかは知ることができなかったけれど、就職活動を(恐らく)頑張って入った会社を辞めようと思うくらいには悩んでいたのだろう。


また、学生時代の友人もつい先日退職をしたという。彼の場合はストレスによる体調不良が業務に支障をきたすレベルで見られるようになったことが原因だ。

「まだ頑張ろう!」そう心では思っていても、吐き気は収まらず、出勤時の電車を途中で降りて吐く。著しく体調を崩すといった経験をした結果、仕事を続けられる自信が無くなったのだという。


どちらも、現在は身体的にも精神的にも健全な状態であるということで、本当にホッとしている。取り返しのつかないことになる可能性もあったわけで、よく見聞きする自殺関連の報道と自分を隔てる距離は案外、そんなに離れていないのかもしれないと思う。


自分も、社会の理不尽というか、洗礼?を最近は感じている。臭いものには蓋をし、自分が安全地帯に留まるために全力を尽くす人間に囲まれ、イライラも怒りも募る、募る。

・誰かがやってくれるだろう精神。

・忙しいのは自分だけと思い込む想像力の無さ。

この二点が特に目立つ。チームワークも感じられず、スタンドプレーばかり。

この状況の改善のためには、組織の抜本的な改革くらいの規模での変化が必要だとは思いながらも、いち新入社員である自分には、フラストレーションを溜めること以外は、どうすることもできない。

しかし、一番怖いのは、こういった環境に慣れ切ってしまうことである。今自分が置かれている状況に対して客観的になり、常に自問自答を繰り返すことは大変な闘いではあるけれども、これをいかに長く続けられるかで、自分評価における自分の人間としての価値が決まるような気がする。


『常にあなたを他の誰かのようにしようとする世の中で他の誰でもない自分でいること、それは人間にとって最も過酷な戦いに挑むことを意味する。戦いを諦めてはならない。』


これは、日本を代表するアパレルブランドである、コムデギャルソンの広告に使用された言葉です。



明日からまた頑張ろう。


https://m.youtube.com/watch?v=l7Tdleowcqw

社会人と感受性

新社会人となり、はや3ヶ月(ほぼ4ヶ月)。

矢のように過ぎる時間とはこういうものかと感じる今日この頃。

職場では、自分が加入したことで、一人人間が増えたにもかかわらず、厄介ごとは増えているのではないか?と思ってしまうほどに自分の至らなさ・焦りを感じている今日この頃。

休日が来ても、いつの間にか一日が過ぎ、ああ明日も仕事か…と侘しい気持ちになる今日この頃。

 

要するに、何が言いたいかというと、今の自分には余裕がない。

これは、時間的に忙し過ぎて、遊びとか自己啓発等々ができないという訳では決してなく、日々の活動が単純に精神の容量を超えているということを意味している。

日々の生活を潤った、生き生きとしたものにするためには、お金や時間の余裕だけではなく、精神的な余裕も必要なのだと、最近は特に感じる(お金や時間の余裕がなければ精神的な余裕もなくなるということもあると思う)。

自己啓発的な取り組みはもちろん、遊びにしたって「自発的な」ものの場合は、始めるのにエネルギーを要するし、余裕がなくては始めるのは難しい。

ただ、部屋の掃除や溜まった洗い物を綺麗にするのが面倒臭く感じるのと同じように、やるべきことを後回しにしていると、あとでとんでもないことになるので、毎日少しずつ無理をするしかない。

こうやって無理をする生活を続けていれば、「無理」の範囲が広くなるのだろうかと淡い期待も抱いているが、多分そんなことはないのだろう。このままの生活を続けると、10年後も20年後も同じように少しの無理をどうにかこうにか我慢して生きている気がする。これは必ずしも悪いことではないのかもしれないが、そういった想像をすると、なんとも悲しく、寂しくなる。

なぜなら、余裕のない生活の中では、感受性が恐ろしいほど鈍くなるからだ。遊びや音楽鑑賞、読書や勉強に至るまで、色々な方向に張っていたはずのアンテナがポキっと折れてしまったが如く、興味ややる気が起きなくなってしまうのだ。

そういった娯楽のない余生を過ごすのはさすがに嫌なので、なんとかこのループから抜け出さなくてはいけない。

ではどうするか?

恐らく、何処かのタイミングですごく「無理をして」この螺旋から抜け出そうと努力をしなければならないのだろう。若く、体力に余裕のある今やらなくては、いつそれができるというのだろう!

 

 

でも、まだ職場で最低限のことすらできてないのに、他のことにまで色々と手を伸ばすのはなぁ…とも思う(甘え)。

そんなこんなで、仕事でも遊びでもなんでもござれの、血の代わりにレッドブルが流れてそうな人を見ると、なんとも眩しく感じる今日この頃ですが、私は私なりに、自分に合った無理を探り探りやっていきたいと思います。

 

それにしても、スーツが暑い!夏よ、早く過ぎてくれ!!

 

 

今日の一曲

 

 


Row Row Fight the Power!

 

今の俺には螺旋力が足りねぇ!!

来たる新生活に向けて

学生として過ごす期間もあと3週間ほどとなり、社会に出るにあたって期待よりも不安が日々募る今日この頃であります。

新生活において、媚びない人間になりたいと思う。他人にも、自分にも。

もちろん、社交辞令的なものはまともにこなすつもりだし、特別排他的になろうとも思わない。ただ「こうありたい」自分に近づくために頑張ることのできる人間でありたいなと思う。

最近、学生生活を振り返ったときに、後悔がないと言えば嘘になるけれど、もし今の自分が過去の自分にアドバイスをおくることができても、当時の自分はそれなりにいっぱいいっぱいで、今と大して変わらない生活をしていたのではないかと思うことがあった。悔しいというよりも、仕方ないなというふうに。

こういう諦念を交えた考え方、こういう踏ん切りのつけ方というのも生きていくには必要なのかもしれないとも思った。また、これが大人になるってことなのかもしれないなと理解しようとした。

ただ、将来この考えを当たり前のように受け入れた自分が存在するのではないかと考えると、背筋が寒くなった。今まで「こうありたくない」と考えてきた自分像に近づいていく未来は遠慮したいと思った。臭いものには蓋をして、その上でなんとなーく生きるような人生にはしたくないなと思った。

「こうありたい」と思える自分像に近づくことは簡単なことではない(さらに言えば、辛く苦しいものですらあるだろう)けれど、そこに向かって足掻いている自分のことが、多分、私は好きだ。ある意味で、私の「こうありたい」自分とは、辛いものから逃げずにもがくことのできる自分なのかもしれない。

 

自分で書いていて青臭い文章だとは思ったけれど、こういうものに私はなりたい。

 

 

今日の一曲

最高の応援歌!!


The Pillows LOSTMAN GO TO BUDOKAN Live #3 MY FOOT

 

 

マジョリティの認識についての話

 タイトルが難しい感じになってしまいましたが、この間言語学を専攻する教授から面白い話を聞いたので、ブログに書こうと思いました。思い出しながら書くので、時系列や情報の正確性については保証できませんので悪しからず…

 

ガウディの建築をはじめとした観光資源が日本でも有名で、近年では独立問題についても取り上げられるようになったカタルーニャですが、そこで暮らす人々によく使われる言葉として、カタルーニャ語というものがあります。

このカタルーニャ語は、1936-75年フランコ将軍が独裁をする間、公的な場での使用をずっと禁じられてきました。そのため、この言語を母語とする人たちは、家の中や、または親しい友人たちと話すときにそれを用いるくらいで、当時は「内の」「私的な」言語として人々に認識されていました。反対に、カスティーリャ語スペイン語)は「外の」「公式な」言語としての認識が広まっていました。

月日が流れ、フランコの独裁は彼の死によって終わりを告げましたが、時期を同じくしてカタルーニャで「あなたはカタルーニャ語を使えますか?」という旨の質問が盛り込まれた住民調査があり、そこで「Sí.(はい。)」と答える人の数は非常に少なかったそうです。

しかし、数年後に同じ質問がなされたところ、百万人単位でカタルーニャ語話者が増えていたそうです。学校教育による影響だけでは考えられないような伸び率であったため、言語学者たちは調査対象となった人々が、「私たちの使っているカタルーニャ語カタルーニャ語だったんだ。」と認識できるようになった結果、このような数値の増加につながったのだろうと予測しました。

つまり、「私的な」言語であったカタルーニャ語は、それまで公の場で使われることはなかったため、その話者たちは自分が話している言葉がカタルーニャ語だということに確信を持てずにいました。しかし、独裁後に公的な場での使用が可能になり、カタルーニャ自治政府の市民への働きかけなどが実を結んだ結果、カタルーニャ語が「外の」「公的な」言語としても人々の間で認識されるようになったのです。

ですから、言語政策を行う際には、言語の教育体制を整えることに加えて、その言語を話すことができる人に話しても良いということを認識してもらい、実際に使用してもらうことが大事なのだそうです。

 

話は移りますが、私たちは日常的に日本語を話しています。そして、自分たちの話す言語が日本語だということを疑うことはありません(それを疑うまでに自己省察している方がもしお読みでしたらごめんなさい)。それは何故でしょうか?

理由の一つとして、学校教育の場で「日本語というものはこういうものだよ」ということを小さい時から体系的に教えられているということが挙げられます。考えてみればカタルーニャ語の例も日本語の場合も納得することができますが、マジョリティ側の論理が正当で、当たり前だとされている世界では、こういったことに疑問を抱くこともなかなかできません。

これは言語に限った話ではなく、自分たちが当たり前だと思っていることにも、実は何らかのバイアスがかかっていて、それゆえにその判断において行われた行動には罪悪感といったものが生まれにくいのではないかと思います。自分たちがマジョリティであった場合、私たちの当たり前がマイノリティに押し付けられているかもしれませんし、傷つけてしまっているかもしれません。ですから、本当に相手のことを考えるのならば、まずは自分自身を疑わなければならないのかなと思いました。

 

 

今日の一曲


Qomolangma Tomato - Through Your Reality

定食屋、そして終わりのない悲しみ

学生の一人暮らしで、陸なものを食べていないのが祟ったのか、喉が痛む上に鼻水もずるずるの風邪気味になってしまったので、こんな時ぐらい良いものでも食べて栄養をつけようと思い、近所の定食屋に出かけることにした。

 

久方ぶりの外食に、浮きたつ気持ちを抑え、熟考に熟考を重ねて私が注文したのは、豚生姜焼き定食にカキフライがついたセット。大体1,000円位で、学生の私からしたら、かなりのご馳走である。

 

しかし、注文時に事件は起こった。

 

私より少し遅れて、禿げたおっさんと若い女のカップルが入店してきたのだが、その禿げた中年男性が、あろうことか私の注文を聞いて、連れの女に、こう吐かしたのである。

 

「ーこういうとこまで来て、カキフライとか生姜焼きみたいな、いつでも食べられるもの食べたくないよね笑」

 

 

 

は?

 

 

定食屋なんだから、家庭でも作れるようなもんしかメニューにねえだろうがハゲ。それにそのセリフを吐くようなハゲが十も二十も年下の女を連れて場末の定食屋なんか来てんじゃねーよハゲ。というかこのハゲはいい年して女誘うのに気の利いたレストランの一つも予約できねーのか情けねーハゲだな。第一、人の注文に文句つけてんじゃねーぞハゲ。

 

 

このように悶々とした気持ちで静かに定食についてきた味噌汁を啜っていると、件の禿げが店員を呼んだ。

注文をするようだ。

 

 

 

オウオウオウ! てめえさっきは偉そうなこと吐かしやがったからに、さぞかしセンスある注文をしてくれるんだろうなぁ!?と思って聞いていると、

 

 

 

禿「ーこの日替わり定食ください」

店員さん「すみません、今日は生憎材料が切れてまして...」

私(ざまあ笑)

 

 

 

私(何を頼む?どうせ季節の定食で鰆の塩焼きとか...)

 

 

 

 

 

 

禿「じゃあハンバーグ定食で!キリッ」

私(!!!!!)

 

 

おいおい抜けてるのは髪だけにしてくれよハゲのおっさん!!諸行無常盛者必衰の理を形容するかのようなその頭皮とは反比例して頭の中は幼児退行しちゃってるのかな?

というか、あんな言葉を言った手前、よくそんな小学生が頼むようメニュー頼めたな、お前の意思もお前の毛根と一緒でコシがねーんだな!それともあれか?その醜悪なゴラム※みたいな見た目なのに男の子が大好きなハンバーグ定食頼む僕ちん可愛い路線に変更したか?ハゲがそんなギャップ萌え狙ってんじゃねーぞ!キモいんだよ!というかそれ、もしかしてこの後に向かうホテルでの赤ちゃんプレイへの布石なの?禿げ上がった頭でにやけながらおっ○いをハンバーグみたくこねくり回しながら一言、

「今日食べたハンバーグより柔らかくて美味しいでちゅ」とか言うんだろどうせ、それも、デュフデュフ言いながらすんだよ。あーこのハゲほんとに無理だわキモいわー生理的に受け付けないし、本当に身の毛がよだつ... あ、おめーは立つ髪もねえよなあ笑 羨ましいか、ん?立つ髪がないからって別のもの立てますってか?やかましいわ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ってか、このハゲ赤ちゃんプレイとかしてんの?きっっっっっしょ!!!!!!!

 

 

 

 

 

このように、怒り心頭怒髪天を突く勢いで飯をかきこんでいたら、味わう間もなく久しぶりの外食が終了していました。死にたいです。

 

 

www.youtube.com

 

※ゴラム

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%AF%E3%83%AA

 

 

 

就職活動の憂鬱

就職活動がキツい…

 

何がキツいって、ESの「学生時代に一番打ち込んだこと」、この項目を埋めるのがキツい…

 

これは、高校時代は部活など、何らかのものに入れ込んでいたのに、大学生になってやることがなくなった人あるあるかもしれないけれど(所謂燃え尽き症候群というやつか)、書くことが本当に思い浮かばない。

 

私は、大学生になってから、サークルにはよく顔を出しているし、アルバイトもした、評定も悪くない、そして留学までしたけれど、高校時代の一生懸命さと今の自分の頑張りを比べると、どうしても今の頑張りが、貼り付けの偽物のように感じてしまう。

当時ほど打ち込めることがなく、何でも「それなり」の努力でクリアできてしまう。勉強も人間関係もなんとな〜く済ましてしまって、その場をやり過ごすのには何の問題もないけれど、後になって振り返ってみると、あの期間の自分は何をやっていたのかと呪いたくなるほど、自分の中に残っているものが少ない、あるいはまったく無い。

一応、ポイント毎に頑張っている(つもりでいる)のに、打ち込んだことに対する判断基準が高校時代のそれになっているからか、自信を持つことが、なかなかどうして難しい。

自分は、一つの事柄に集中することに関しては、それなりに自信を持っているけれど、そもそも、あまり器用では無いので、大学という開かれていて、何をしてもいいという環境にあまり馴染めなかったというのはあるかもしれない。

 

また、環境に期待しすぎていたというのもあるかもしれない。

「大学に行けば、薔薇色のキャンパスライフを送ることができる」、「イギリスに留学すれば、英語が話せるようになる」といったように、結果は、ある程度環境に付随するものだと思っていたけれど、実際は自分で行動しなければ、友達は100人できないし、バイリンガルマルチリンガルにもなれないと、去年やっと実感した気がする。

結果は行動についてくるという、当たり前のことに気づけただけでもよかったと考えるべきなのか?とも思うけれど、それにしてはあまりにも高い勉強代だったなー、と今になって思うのであった。

 

 


まともがわからない