憂鬱メロン

音楽とサッカーが好きです。備忘録。

映画『ファイト・クラブ』感想

「嫌な仕事をして、いりもしない物を買わされるわけだ。俺たちは歴史の間に生まれ、生きる目標も場所もない。新たな世界大戦も大恐慌もない。今あるのは魂の戦争。毎日の生活が大恐慌

*1

 

映画『ファイト・クラブ』でブラッドピット演じるタイラーが述べるこの台詞は、ポストモダンと呼ばれる社会で生きる私たちの多くが直面する現実を完全に表しているのではないだろうか。そして、映画公開から20年が経とうとそれは変わっていないのでは…?

 

基本的人権の尊重を重んじ、全体主義や自民族中心主義は批判の的となり、世界は物質的にも情報の面でも、また人間の権利においても自由を得た(自由に近づいた)はずだった…

 

しかし、私たちは本当に「自由」になったのだろうか?タイラーが言うように、多くの人々が資本主義の奴隷、社会の歯車となり、毎日を乗り越えることにやっとではないか?そこに「自分」はない。ただ、自分たちを包括する枠組みが全体主義から資本主義であったり、他のものに変わっただけ。

 

タイラーは世界の枠組みを根本から再構築することを目論むわけであるが、これは近年のナショナリズムの再興や反グローバリズム運動の激化に通じる部分が非常に多いと感じる。劇中でもタイラーがエドワード・ノートン演じる主人公に対して、暴走する車内で「流れに身を任せろ」と語る場面があるけれど、これは社会の根本的な転換を目指すタイラーの考えも、資本主義に対抗する「流れ」の一つでしかないという意味にもとれる。

 

確かにタイラーの言うように、この世界は「ムカつく」のだ。何故「ムカつく」のかというと、自分の思うようにならないからに他ない。目指すべき目標も夢も失い、毎日を生かされるだけの生活。しかもそのクソつまらない生活が「自 分 自 身 の 選 択 で あ る」と見做されるこの世界にムカついている。

 

いわゆる「トロッコ問題」のように、何が正しいのかが明確ではない今の世界(ポストモダン社会)では、日常生活においても常に「自分の意思での」決定が求められるため、ありとあらゆる現象が「自己責任」という名をつけられてしまう…

 

では、この我慢ならない世界で私たちはどうしたら良いのか?

 

コンビニエンスストアで働く若者に対し、タイラーが銃口を向け、その青年のかつての夢が獣医であることを聞き出すと、「6週間後に獣医になるための勉強をしていなければ殺す」と脅す場面がある。

 

これらの、コンビニの従業員のシーンや車で暴走するシーンでは、(血と汗を流し)命の危機に晒されなければ人間は決意できないという弱さや、(流れに身を任せ)何か大きな力の指示でなければ決断できない弱さを感じるけれど、これはこの社会によって育まれた現代の奴隷根性と呼ぶことができるかもしれない。

 

タイラーの願いは、根本的にはこの奴隷根性を個人が自分の力で超越することにあるのではないかと思う。自身で考え、決断する力というのは、「人間として」生きていく上で必須の力であり、人間の最も美しい一面でもある。人間が人間らしく生きるための世界、それがタイラーの目指す世界なのだろう。そして、そのために邪魔になるのが現在の世界を支配する枠組みであり、それゆえに破壊を試みるのだけども、皮肉なのは、そういった「人間らしい」生き方を求めていたはずにもかかわらず、クラブのメンバーがどんどんと自分の頭で考えることをやめ、集合意識のもとに暴走をする(タイラーが暴走するように仕向ける)ということだった。

 

現代は、何が正しいのか答えを出しあぐねている間にどんどんと変わっていってしまう。考えることをやめることができれば、どんなに楽になるだろう。でも、やはり考えることをやめてはいけないんだと個人的には思う。

 

ではやはり、この「自己責任社会」で生きていくしかないのだろうか。文章を書いていて、自分でもどうすべきか分からなくなって頭がおかしくなりそうだ…笑

この社会の「奴隷」とならないよう常に考え、迫りくる決断の連続に向き合って生きていく… 想像しただけでめちゃくちゃ辛い、辛すぎる…

 

何が正しいかという正解がない問題だと思うので、どうこう結論づけることがそもそも難しいのだろうけれど、こういった問題提起をする作品が20年も前に出ていることは面白い。一方で、これだけ科学技術が進歩するなかで、この手の議論・認識・理解が殆ど進んでいないように思った。

 

しかも、そうやって考えあぐねている間にも世界はどんどんと変化していく。

そして、世界と自分との乖離が大きいほどその悩みや葛藤は大きくなっていくだろう。まさに、「魂の戦争」だ。

ただ、その辛さから逃れるために大きな流れ(物語)を再び求め、自分の頭で考えないという方向へと向かうのは、歴史の後退であり、人間の尊厳に後ろ足で泥をかける行為であることは肝に命じておかなければならないと強く思った。

 

知人の勧めで視聴したけど、とても面白かったです!

*1:ファイト・クラブ』登場人物タイラー・ダーデンのセリフより引用 

「アイデアとユーモア」 −星野源『アイデア』とヘッセの『荒野のおおかみ』−

最近PUNPEEやSuperorganismとの楽曲を発表し、そのクオリティーの高さから、そしてその引き出しの多さから、ライト層からディープな音楽ファンまで唸らせている星野源。この『アイデア』という曲も発表当時からかなり話題になっていた。

 

この曲で歌われている「アイデア」とは、僕の好きなヘッセの小説『荒野のおおかみ』で謳われている「ユーモア」ではないか?と思えてならない。

 

小説の要約(かなり観念的な内容で、読み進めるのも理解するのも、自分の知能では大変に骨の折れる作品なので、うまく要約できているか自信はない笑)

『極めて精神的な人間である主人公"ハリー"は、欺瞞や脚色の溢れる世界で生きていくことに絶望しつつも、死ぬ勇気もなく、生にしがみついている。しかし、高級娼婦ヘルミーネとの出会いを通じて、この絶望的な現実世界(極めて感性的)で生きていくために「ユーモア」を学んでいく』

 

では、そもそも「ユーモア」とは一体なんなのか?ということだが、この作品を読んだ上で定義付けをするのであれば、「現実世界で絶望に面したときに、工夫や発想の転換、閃きによって絶望(現実世界)を超越すること、またその能力」であり、作中では、それを以て現実世界に参画し、影響まで与えている人々が「不滅の人々」として描かれている(ゲーテモーツァルトなど)。

 

長い前振りを終え、ここからが漸く星野源の『アイデア』への感想になるのだけれども、この曲は三部構成になっていて、最初の二部を「朝」と「夜」という言葉で表している。

これを『荒野のおおかみ』的に言うのであれば、「朝=感性=ヘルミーネ」と「夜=精神(観念)=ハラー」の世界と捉えられないだろうか。感性の世界の住人であり、瞬間瞬間を精一杯楽しむヘルミーネと、精神の世界の住人であり、世界を愛してはいるが、その世界との不一致を常に感じて生きているハリー。

人間は美しいと思うものだけに触れて生きていくことはできない(どちらかだけの世界の住人ではいられない)。モーツァルトゲーテの素晴らしさがわかったとしても、それだけではこの現実世界では生きていけないのと同様に、美味しいものを美味しい、気持ち良いことは気持ち良いと刹那的な感情だけで生きていくことはできないのだ。

 

そういった、本来的には別々である感性と精神の世界を繋ぐのが「ユーモア」であるわけだけれども、それを踏まえて歌詞を見てみると、

 

第一部では、

『夢を連れて繰り返した 湯気には生活のメロディ 鶏の歌声も 線路 風の話し声も すべてはモノラルのメロディ 涙零れる音は 咲いた花が弾く雨音 哀しみに青空を』と歌われている一方で、

第二部では、

『虚しさとのダンスフロアだ 笑顔の裏側の景色 独りで泣く声も 喉の下の叫び声も すべては笑われる景色 生きてただ生きていて 踏まれ潰れた花のように にこやかに中指を』と歌われている。

 

第一部は身体がフォーカスされていて、世界の美しさを感じ取れる豊かな感性を歌っているような歌詞であるのに対し、第二部では精神がフォーカスされていて、世界との乖離・孤独が感じられる歌詞である。ぱっと見では単純な明暗の対比のように見えるけれど、第一部でも「モノラルのメロディ=平面(表面)的な美しさ?」とあるあたり、人間が生きていく上で避けて通ることができない二つの世界の間での葛藤が表現されている。

 

『つづく日々の道の先を 塞ぐ影にアイデアを 雨の音で歌を歌おう 全て越えて響け』

 

第一部〜第三部まで共通して使われている一節であるこの歌詞は、人生における絶望に対峙した時のユーモアを歌っているように思えてならない。そのユーモア(アイデア)と言うのが、第一部(感性面)では哀しみに対する「青空(=喜び)」であり、第二部(精神面)では抑圧に対する「にこやかな中指(=皮肉)」である。

 

『闇の中から歌が聞こえた あなたの胸から 刻む鼓動は一つの歌だ 胸に手を置けば そこで鳴ってる つづく日々の道の先を 塞ぐ影にアイデアを 雨の中で君と歌おう 音が止まる日まで』

 

この第三部の歌詞では、気づき(=閃き=ユーモア)によって、闇=絶望の中で生を肯定した上で(感性面と精神面が繋がった!)、人生を生きていこうという人物像が描かれていますが、身近なところでは、いつもの通勤路も、電車の窓からの景色も、その時聴いている音楽や読んでいる本によって違って見えることがあるのではないでしょうか。そういった「アイデア」を以てつづく道を歩いていきたいと思える素晴らしい曲だと感じました。

 


星野源 – アイデア (Official Video)

 

追記

勿論星野源氏にも悩みや色々な葛藤があるのだろうけれど、彼のジャンルの垣根を超えた大活躍(音楽だけでなく俳優業なども)を目の当たりにすると、この人も「不滅の人々」の一人なのでは…と思えてならない。

 

Big Thief 『U.F.O.F.』

NYのインディ・フォークバンドBig Thief3rdアルバムである今作、何回か通して聴いて、感じた印象を一言で表すのであれば「宝物」だった。


「宝物」という文字から温度を感じるのは僕だけだろうか。例えば「宝石」であれば、それは宝物には間違いないが、温かさは感じない。

一方で、「宝物」という文字には主観性が要素として含まれている部分があるように思う。例えば、僕が小学生の頃は毎日のように学校の帰り道に石を拾って帰ってきていたけれど、それも他人から見ればただの路肩の石ころとなんら変わらないように思われていたことだろう。

たとえ僕にとってそれが特別なものであったとしても他人にはそのことが分からない。自分だけの大切なもの。そういったニュアンスが「宝物」という言葉にはあるのではないかと思う。

少し飛躍して、例えば小学生の頃の僕が「宝石」を学校の帰り道で見つけて持ち帰ったらどうだろうか?

それは他人にとっても自分にとっても価値のある「宝物」であるに違いない。だが、「宝物」としての意味合いは自分と他人の中で違ったものになるはずだろう。

僕は『U.F.O.F.』を聴いて、学校の帰り道でダイヤモンドを拾った少年の気持ちになった。恐らく、多くの人にとって同じように「宝物」になるであろう本作。インディ好きでなくともオススメできる最高のアルバムです。


https://m.youtube.com/watch?v=AjPa7M5n2CU&list=PL4Fx3pPHOjupD70EaB9QsDa30zFN5h8Jm&index=4&t=0s

オアシスの曲

最近、オアシスの曲を聴いていたら、ふと思い出した。

 

大学の卒業旅行はレンタカーを借りての九州地方回遊。その道中はメンバーの好きな曲をずっと流しながらだらだらとドライブした。

すごく楽しかった。

その時にオアシスの『Some Might Say』を車中で友達とでっかい声で歌ったことが何故か自分の中ですごく印象に残っている。その時に走っていた山道の情景までうっすらと浮かび上がってきて、なんだかたまらない気持ちになった。

今度、その友達の中の一人が結婚することになった。

これからは、みんな仕事はもちろん家庭を持つこともあるだろうし、使える時間もだんだんと少なくなっていくことを考えると、やっぱりあの旅行は我々にとって最後の記念旅行だったのかなあと思えてならない。

悲しいし、寂しい。これから先、50年とか60年そういった思い出の生まれない日々を生きていかなくてはならないなんて、とてもとても耐え難いように思われるけども大丈夫なんだろうか…?

 

自分で打ち込んだ文章を読んでいて、すごく狭い世界で生きてるよなぁとは思いつつも、そのようにしかできない自分がいる。ヤマアラシというよりは、エヴァハリネズミのジレンマって感じ(受け身で傷つくのが怖い)。「外」に出ていく体力気力が今の自分には大したものがないのだ。

そんな私に、色々と助言してくれたり励ましてくれる友人もいるけれど、最終的には自分がどうするか決めるしかない。まさに「サム・マイト・セイ」自分の生き方は自分で決めるしかないのだ。←これが言いたかっただけ。

 

 


Oasis - Some Might Say - Official Video

 

 

便利な時代とインスタント・ミュージック

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

 

めちゃくちゃ放置していたブログですが、去年は思ったことを文章にしておくっていうことが大事だなあと感じた一年だったので更新したいと思います。

 

今回は、Apple MusicやSpotifyなどの音楽を定額で聴くことができるサービスに関して書きたいと思います。

他でもない自分が一年間Apple Musicを使用して感じたことなのですが、これらのサービスは本当に手軽で且つ便利。私も例年では考えられないような量の楽曲に触れることができました。具体的に数字に表すと、アルバム単位では2017年リリースの作品を90作品に耳を通すことができ、沢山の良き音楽との良き出会いがありました。

もっと多くの音楽を聴かれた人がこのインターネットの大海には大勢いらっしゃることは重々承知ですが、自分としてはこれだけの数(種類)の音楽を聴けたことは完全に人生初であり、去年の年末にリストアップをした時は軽く感動すらしました…

それだけこれらの音楽サービスは自分にとって革新的な変化をもたらしてくれました。特に便利だったのが、SNS等で音楽好きの方々がオススメしている楽曲をその場でさくっと検索&気に入ったらダウンロードできるということです。今までの人生で自分の何倍、何十倍、何百倍の音楽に触れてきたであろう諸先輩がたのおかげで、大のお気に入りとなった楽曲・ミュージシャンはこの一年で大きく増えました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

ここで急に表題の件に戻ってくるのですが、良いことばかりではないのかな?と思うことも多々ありました。

便利な機能の弊害とも言えるのですが、一曲聴くのにかかる色々なコスト・経験(CD代や時間など)がゼロに近いものとなったことで、楽曲やミュージシャンに対する評価がインスタントなものとなってしまうことを感じました。よく言えば、楽曲そのものを評価していることにはなるのでしょうが、そのミュージシャンが持つバックグラウンドやその時の自分の置かれている環境などを度外視して、音楽を線ではなく点で評価することに常に違和感を感じていました。

以前は、テレビやラジオといったメディアで先行配信される楽曲を聴いて新譜への期待を膨らませたり、音楽雑誌のインタビュー記事やネットに転がっている情報をかき集めてミュージシャンについて調べることが当たり前だった(というか選択肢があまりなかった)と思いますが、現代では曲から曲へジャンプするだけで自分の好みの楽曲やミュージシャンに出会えます。

音楽との付き合い方が大きく変わっている時代の中にいると感じますし、この流れはもう全世界的なものなので、これからますますインスタントな楽しみ方が主流となっていくと思います。こんな文章を書いておきながら、私もこの便利な音楽配信サービスを自分の生活から切り離そうとは思えません(笑)

ただ、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の中では、

上記のような一節があります。私としてはこのような考え方を無くさないようにしたいとも強く思います。

去年、Syrup16gというバンドが新譜を出したのですが、その音源がApple Musicで聴けなかった関係で、私は久しぶりに電車に乗ってCDを買いに出かけました。ネット通販ではなく、直接買いに行こうと思ったのが何故かは分かりませんが、きっと自分の中で「わざわざ買いに行く」という経験を欲していたのだと思います。コト消費とかいう言葉も流行っていますが、CDを買った帰り道では、久しぶりに「早く家に帰って聴きたい!」というワクワク感を得ることができました。このように、これから自分がCDなどを買うときには、音源を買うという意味合いだけではなく、一つの体験を買うという意味合いが強くなっていくのでしょう。

長くなりましたが、今年はこの気持ちを大切にして、昨年よりじっくりと腰を据えて一つ一つの楽曲に向き合えたらいいと思います。繰り返しになりますが、本年もどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

 


インスタントミュージック/the pillows

 

Progate、始めますた

タイトルの通り、Progate(プログラミングの基礎を学べるサイト。有料会員プランあり)に登録しました。もちろん今は無料のコースで進めています。

 

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(※画像はProgateの紹介用のもの)

いざ始めてみると、今こうして利用しているはてなのサイトの仕組みなんかが、ほーーーんの少しだけ理解できるようになって、ちょっと楽しい。ほんのちょっと視点が変わるだけで見えているものもガラッと変わるってことはよくあるんだけど、多くの場合、視点を変えるまでは他の視点があるってことにさえ気づくことすらできないものだと思っているので、将来的に、このプログラミングというものが自分の視点を変えるきっかけになればいいなあと思う。

まあ、バリバリのプログラマーになってやるぜ!という野望を持っているわけでもないので、まったりゆっくりマイペースで進めたいとは思います。数学苦手だけど、頑張るぜ!

 

prog-8.com

 

(代表者の人たちがみんなめちゃめちゃ若くて笑った。同年代でこうして起業とかしている人を見ると素直に感心する。俺は何やってるんや、みたいな…)

 

www.youtube.com

SCLLが気持ちよく聴ける季節がやってきた!

ところで、YoutubeでSCLL、ストレイテナーtoeの楽曲のマッシュアップ作ってる人何者なんですか… 完成度高すぎてビビるので、是非そちらも検索してみてください。

versus企業体質

新入社員として働き始め、はや6ヶ月目に突入した。最近では、蝉の声もいつの間にか収まり、朝晩に肌寒さを感じることまである。スーツで出勤している身としては、ありがたいことこの上ない。


最近、自分の身の周りで退職という選択をする人がポツポツと現れている。

例えば、つい先日同期入社の一人が仕事を辞めた。理由は、希望としていた業務とはかけ離れた部署に配属されたからだという。

私は、退職した同期と特に仲が良かったわけではないので、彼女がどれほど悩んでいたかは知ることができなかったけれど、就職活動を(恐らく)頑張って入った会社を辞めようと思うくらいには悩んでいたのだろう。


また、学生時代の友人もつい先日退職をしたという。彼の場合はストレスによる体調不良が業務に支障をきたすレベルで見られるようになったことが原因だ。

「まだ頑張ろう!」そう心では思っていても、吐き気は収まらず、出勤時の電車を途中で降りて吐く。著しく体調を崩すといった経験をした結果、仕事を続けられる自信が無くなったのだという。


どちらも、現在は身体的にも精神的にも健全な状態であるということで、本当にホッとしている。取り返しのつかないことになる可能性もあったわけで、よく見聞きする自殺関連の報道と自分を隔てる距離は案外、そんなに離れていないのかもしれないと思う。


自分も、社会の理不尽というか、洗礼?を最近は感じている。臭いものには蓋をし、自分が安全地帯に留まるために全力を尽くす人間に囲まれ、イライラも怒りも募る、募る。

・誰かがやってくれるだろう精神。

・忙しいのは自分だけと思い込む想像力の無さ。

この二点が特に目立つ。チームワークも感じられず、スタンドプレーばかり。

この状況の改善のためには、組織の抜本的な改革くらいの規模での変化が必要だとは思いながらも、いち新入社員である自分には、フラストレーションを溜めること以外は、どうすることもできない。

しかし、一番怖いのは、こういった環境に慣れ切ってしまうことである。今自分が置かれている状況に対して客観的になり、常に自問自答を繰り返すことは大変な闘いではあるけれども、これをいかに長く続けられるかで、自分評価における自分の人間としての価値が決まるような気がする。


『常にあなたを他の誰かのようにしようとする世の中で他の誰でもない自分でいること、それは人間にとって最も過酷な戦いに挑むことを意味する。戦いを諦めてはならない。』


これは、日本を代表するアパレルブランドである、コムデギャルソンの広告に使用された言葉です。



明日からまた頑張ろう。


https://m.youtube.com/watch?v=l7Tdleowcqw