憂鬱メロン

音楽とサッカーが好きです。備忘録。

Arctic Monkeysの新譜 “Tranquility Base Hotel & Casino”を聴いて

今回のアークティックモンキーズの新作を聴くに当たってファーストから通して聴き直したんですが、その上で今作は傑作だと思いました。

 

ここからは個人的な感想ですが 、“I just wanted to be one of The Strokes~ のフレーズから始まる今作からは、大袈裟に言えば、アレックス・ターナーの音楽への愛を感じました。

恐らく、ロックやジャズ、ヒップホップなどの「若い音楽」を好む人々にとって、感性が最も多感な十代の頃に親しんだ音楽というのは特別な意味があると思います。ストロークスのファーストが2001年リリースですから、当時15歳だったアレックス少年の受けた衝撃は相当なものであったのだろうと想像することができます。アレックス・ターナーはそれから約5年後にアークティック・モンキーズとして名盤『Whatever People say I am, ~』を世に出すわけですが、この作品からはストロークスの影響を確かに感じとることができます。

この作品以後、アークティックモンキーズは最新作までに4つのアルバムをリリースしていますが、その作風は徐々に変化していきます。セカンドまではガレージロック強め、特徴的なギターリフとドラミングによる独特のサウンドでしたが、サードアルバム以降は特にヒップホップやソウルといったジャンルからの影響や「USっぽいこと」へのアプローチも強く見られるようになり、アレックスの艶のあるヴォーカルを押し出す曲も増えていきました。この辺りから、「歌ものでは無いカッコいいもの」を求める自分のような一部の、ある意味で保守的なロックファンはこのバンドとは距離を取るようになったのかなと思います。

それから後はよりメロウで艶っぽい曲が増えていき、最新作と一作目とでは、作風が違いすぎて本当に同じバンドなのか疑わしくなるほどです。

 

ここでさらに個人的な話になりますが、自分が初めてアークティックモンキーズの曲に触れたのはたしか高校二年の頃で、YouTubeI bet you look good on the dancefloorを聴いてめちゃくちゃカッケーバンドがある!と喜んだ記憶があります。周りの人たちがJ-POP(どうしても歌ものが多く、AKB48などのアイドルが市民権をどんどんと獲得していく時期でした)に夢中になっている中で、自分は周りとは違う、本当にカッコいいものを知っているんだと、よく分からないプライドを持っていました。

 

そういうわけで、サード以降のアークティックモンキーズからは特に距離を取ることになった自分ですが、今回ファーストアルバムから最新作まで通しで聴いてみて改めて気づいたことがありました。それは、自分が歌ものも好きだったということです。

 

考えてみれば、高校生になって音楽を聴き始める以前に親しんでいたのは歌ものであったわけで、そういった音楽DNAが自分の中に流れていることは確かです。最近、海外だとジュリアン・ベイカーやジョンレノン、国内であれば宇多田ヒカルや最近話題の小袋成彬といったようなミュージシャンの歌ものを好んで聴くようになったのも、自分の中でそういった文脈があったからなのだな、と得心しました。

 

アークティックモンキーズの作品毎に新しく変化していく楽曲の背景にも、烏滸がましいことを言うのであれば、同じようなことが言えるのではないかと思います。我々(特に自分のような保守的なロックファン)は、あの鮮烈なファーストアルバムを以ってしてアークティックモンキーズである。と思い込んでいる節がありますが、曲を作っているアレックス・ターナーからしてみれば、何もストロークスだけが、UKロックだけがロック(さらに言えば音楽)ではないわけでして、音楽史の先生を父親に持つ彼は様々なジャンルの音楽に親しんできているはずで、それらの影響が色濃く出たのが前作の『AM』であり、最新作の『Tranquility Base Hotel & Casino』なのではないかと思います。

 

“ただストロークスの一員になりたかっただけが今じゃこのザマさ”というような歌詞だけを見ると、突っぱねていた時代への憧憬を含む何とも言えない感情が湧き上がってきます。アークティックモンキーズは、アレックス・ターナーは変化してしまったと。

 

でも、自分と同じような保守的な音楽ファンには、ここでアークティックモンキーズに「変わってしまった・終わったバンド」の烙印を押さないで、新しい音楽に触れることのできる良い機会だと捉えてみて欲しいと思います。

ストロークスへの思いが、歌詞にあるような青年時代への憧憬と諦念が入り混じったものであれば、最新作の楽曲は、今の彼自身を形成する、これまで触れてきたそれらの音楽への愛の形(自分たちの集大成)であるように私には写りました。

 

私はこれを機に、アークティックモンキーズだからこうでなければいけないといったような固い考え方は捨てて、良いと感じるものは良いというような、ロジックやスタンスに基づかない音楽の聴き方をもっと増やしたいと感じました。

 

頭の固い自分にここまで思わせてくれた作品であることを踏まえると、世評がどうであれ個人的には素晴らしい作品だと思います!

 

 

https://m.youtube.com/watch?v=nD6eU4p1DKU

 

 

 

便利な時代とインスタント・ミュージック

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

 

めちゃくちゃ放置していたブログですが、去年は思ったことを文章にしておくっていうことが大事だなあと感じた一年だったので更新したいと思います。

 

今回は、Apple MusicやSpotifyなどの音楽を定額で聴くことができるサービスに関して書きたいと思います。

他でもない自分が一年間Apple Musicを使用して感じたことなのですが、これらのサービスは本当に手軽で且つ便利。私も例年では考えられないような量の楽曲に触れることができました。具体的に数字に表すと、アルバム単位では2017年リリースの作品を90作品に耳を通すことができ、沢山の良き音楽との良き出会いがありました。

もっと多くの音楽を聴かれた人がこのインターネットの大海には大勢いらっしゃることは重々承知ですが、自分としてはこれだけの数(種類)の音楽を聴けたことは完全に人生初であり、去年の年末にリストアップをした時は軽く感動すらしました…

それだけこれらの音楽サービスは自分にとって革新的な変化をもたらしてくれました。特に便利だったのが、SNS等で音楽好きの方々がオススメしている楽曲をその場でさくっと検索&気に入ったらダウンロードできるということです。今までの人生で自分の何倍、何十倍、何百倍の音楽に触れてきたであろう諸先輩がたのおかげで、大のお気に入りとなった楽曲・ミュージシャンはこの一年で大きく増えました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

ここで急に表題の件に戻ってくるのですが、良いことばかりではないのかな?と思うことも多々ありました。

便利な機能の弊害とも言えるのですが、一曲聴くのにかかる色々なコスト・経験(CD代や時間など)がゼロに近いものとなったことで、楽曲やミュージシャンに対する評価がインスタントなものとなってしまうことを感じました。よく言えば、楽曲そのものを評価していることにはなるのでしょうが、そのミュージシャンが持つバックグラウンドやその時の自分の置かれている環境などを度外視して、音楽を線ではなく点で評価することに常に違和感を感じていました。

以前は、テレビやラジオといったメディアで先行配信される楽曲を聴いて新譜への期待を膨らませたり、音楽雑誌のインタビュー記事やネットに転がっている情報をかき集めてミュージシャンについて調べることが当たり前だった(というか選択肢があまりなかった)と思いますが、現代では曲から曲へジャンプするだけで自分の好みの楽曲やミュージシャンに出会えます。

音楽との付き合い方が大きく変わっている時代の中にいると感じますし、この流れはもう全世界的なものなので、これからますますインスタントな楽しみ方が主流となっていくと思います。こんな文章を書いておきながら、私もこの便利な音楽配信サービスを自分の生活から切り離そうとは思えません(笑)

ただ、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の中では、

上記のような一節があります。私としてはこのような考え方を無くさないようにしたいとも強く思います。

去年、Syrup16gというバンドが新譜を出したのですが、その音源がApple Musicで聴けなかった関係で、私は久しぶりに電車に乗ってCDを買いに出かけました。ネット通販ではなく、直接買いに行こうと思ったのが何故かは分かりませんが、きっと自分の中で「わざわざ買いに行く」という経験を欲していたのだと思います。コト消費とかいう言葉も流行っていますが、CDを買った帰り道では、久しぶりに「早く家に帰って聴きたい!」というワクワク感を得ることができました。このように、これから自分がCDなどを買うときには、音源を買うという意味合いだけではなく、一つの体験を買うという意味合いが強くなっていくのでしょう。

長くなりましたが、今年はこの気持ちを大切にして、昨年よりじっくりと腰を据えて一つ一つの楽曲に向き合えたらいいと思います。繰り返しになりますが、本年もどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

 


インスタントミュージック/the pillows

 

Progate、始めますた

タイトルの通り、Progate(プログラミングの基礎を学べるサイト。有料会員プランあり)に登録しました。もちろん今は無料のコースで進めています。

 

f:id:velpanpan:20170922053432p:plain

(※画像はProgateの紹介用のもの)

いざ始めてみると、今こうして利用しているはてなのサイトの仕組みなんかが、ほーーーんの少しだけ理解できるようになって、ちょっと楽しい。ほんのちょっと視点が変わるだけで見えているものもガラッと変わるってことはよくあるんだけど、多くの場合、視点を変えるまでは他の視点があるってことにさえ気づくことすらできないものだと思っているので、将来的に、このプログラミングというものが自分の視点を変えるきっかけになればいいなあと思う。

まあ、バリバリのプログラマーになってやるぜ!という野望を持っているわけでもないので、まったりゆっくりマイペースで進めたいとは思います。数学苦手だけど、頑張るぜ!

 

prog-8.com

 

(代表者の人たちがみんなめちゃめちゃ若くて笑った。同年代でこうして起業とかしている人を見ると素直に感心する。俺は何やってるんや、みたいな…)

 

www.youtube.com

SCLLが気持ちよく聴ける季節がやってきた!

ところで、YoutubeでSCLL、ストレイテナーtoeの楽曲のマッシュアップ作ってる人何者なんですか… 完成度高すぎてビビるので、是非そちらも検索してみてください。

versus企業体質

新入社員として働き始め、はや6ヶ月目に突入した。最近では、蝉の声もいつの間にか収まり、朝晩に肌寒さを感じることまである。スーツで出勤している身としては、ありがたいことこの上ない。


最近、自分の身の周りで退職という選択をする人がポツポツと現れている。

例えば、つい先日同期入社の一人が仕事を辞めた。理由は、希望としていた業務とはかけ離れた部署に配属されたからだという。

私は、退職した同期と特に仲が良かったわけではないので、彼女がどれほど悩んでいたかは知ることができなかったけれど、就職活動を(恐らく)頑張って入った会社を辞めようと思うくらいには悩んでいたのだろう。


また、学生時代の友人もつい先日退職をしたという。彼の場合はストレスによる体調不良が業務に支障をきたすレベルで見られるようになったことが原因だ。

「まだ頑張ろう!」そう心では思っていても、吐き気は収まらず、出勤時の電車を途中で降りて吐く。著しく体調を崩すといった経験をした結果、仕事を続けられる自信が無くなったのだという。


どちらも、現在は身体的にも精神的にも健全な状態であるということで、本当にホッとしている。取り返しのつかないことになる可能性もあったわけで、よく見聞きする自殺関連の報道と自分を隔てる距離は案外、そんなに離れていないのかもしれないと思う。


自分も、社会の理不尽というか、洗礼?を最近は感じている。臭いものには蓋をし、自分が安全地帯に留まるために全力を尽くす人間に囲まれ、イライラも怒りも募る、募る。

・誰かがやってくれるだろう精神。

・忙しいのは自分だけと思い込む想像力の無さ。

この二点が特に目立つ。チームワークも感じられず、スタンドプレーばかり。

この状況の改善のためには、組織の抜本的な改革くらいの規模での変化が必要だとは思いながらも、いち新入社員である自分には、フラストレーションを溜めること以外は、どうすることもできない。

しかし、一番怖いのは、こういった環境に慣れ切ってしまうことである。今自分が置かれている状況に対して客観的になり、常に自問自答を繰り返すことは大変な闘いではあるけれども、これをいかに長く続けられるかで、自分評価における自分の人間としての価値が決まるような気がする。


『常にあなたを他の誰かのようにしようとする世の中で他の誰でもない自分でいること、それは人間にとって最も過酷な戦いに挑むことを意味する。戦いを諦めてはならない。』


これは、日本を代表するアパレルブランドである、コムデギャルソンの広告に使用された言葉です。



明日からまた頑張ろう。


https://m.youtube.com/watch?v=l7Tdleowcqw

社会人と感受性

新社会人となり、はや3ヶ月(ほぼ4ヶ月)。

矢のように過ぎる時間とはこういうものかと感じる今日この頃。

職場では、自分が加入したことで、一人人間が増えたにもかかわらず、厄介ごとは増えているのではないか?と思ってしまうほどに自分の至らなさ・焦りを感じている今日この頃。

休日が来ても、いつの間にか一日が過ぎ、ああ明日も仕事か…と侘しい気持ちになる今日この頃。

 

要するに、何が言いたいかというと、今の自分には余裕がない。

これは、時間的に忙し過ぎて、遊びとか自己啓発等々ができないという訳では決してなく、日々の活動が単純に精神の容量を超えているということを意味している。

日々の生活を潤った、生き生きとしたものにするためには、お金や時間の余裕だけではなく、精神的な余裕も必要なのだと、最近は特に感じる(お金や時間の余裕がなければ精神的な余裕もなくなるということもあると思う)。

自己啓発的な取り組みはもちろん、遊びにしたって「自発的な」ものの場合は、始めるのにエネルギーを要するし、余裕がなくては始めるのは難しい。

ただ、部屋の掃除や溜まった洗い物を綺麗にするのが面倒臭く感じるのと同じように、やるべきことを後回しにしていると、あとでとんでもないことになるので、毎日少しずつ無理をするしかない。

こうやって無理をする生活を続けていれば、「無理」の範囲が広くなるのだろうかと淡い期待も抱いているが、多分そんなことはないのだろう。このままの生活を続けると、10年後も20年後も同じように少しの無理をどうにかこうにか我慢して生きている気がする。これは必ずしも悪いことではないのかもしれないが、そういった想像をすると、なんとも悲しく、寂しくなる。

なぜなら、余裕のない生活の中では、感受性が恐ろしいほど鈍くなるからだ。遊びや音楽鑑賞、読書や勉強に至るまで、色々な方向に張っていたはずのアンテナがポキっと折れてしまったが如く、興味ややる気が起きなくなってしまうのだ。

そういった娯楽のない余生を過ごすのはさすがに嫌なので、なんとかこのループから抜け出さなくてはいけない。

ではどうするか?

恐らく、何処かのタイミングですごく「無理をして」この螺旋から抜け出そうと努力をしなければならないのだろう。若く、体力に余裕のある今やらなくては、いつそれができるというのだろう!

 

 

でも、まだ職場で最低限のことすらできてないのに、他のことにまで色々と手を伸ばすのはなぁ…とも思う(甘え)。

そんなこんなで、仕事でも遊びでもなんでもござれの、血の代わりにレッドブルが流れてそうな人を見ると、なんとも眩しく感じる今日この頃ですが、私は私なりに、自分に合った無理を探り探りやっていきたいと思います。

 

それにしても、スーツが暑い!夏よ、早く過ぎてくれ!!

 

 

今日の一曲

 

 


Row Row Fight the Power!

 

今の俺には螺旋力が足りねぇ!!

来たる新生活に向けて

学生として過ごす期間もあと3週間ほどとなり、社会に出るにあたって期待よりも不安が日々募る今日この頃であります。

新生活において、媚びない人間になりたいと思う。他人にも、自分にも。

もちろん、社交辞令的なものはまともにこなすつもりだし、特別排他的になろうとも思わない。ただ「こうありたい」自分に近づくために頑張ることのできる人間でありたいなと思う。

最近、学生生活を振り返ったときに、後悔がないと言えば嘘になるけれど、もし今の自分が過去の自分にアドバイスをおくることができても、当時の自分はそれなりにいっぱいいっぱいで、今と大して変わらない生活をしていたのではないかと思うことがあった。悔しいというよりも、仕方ないなというふうに。

こういう諦念を交えた考え方、こういう踏ん切りのつけ方というのも生きていくには必要なのかもしれないとも思った。また、これが大人になるってことなのかもしれないなと理解しようとした。

ただ、将来この考えを当たり前のように受け入れた自分が存在するのではないかと考えると、背筋が寒くなった。今まで「こうありたくない」と考えてきた自分像に近づいていく未来は遠慮したいと思った。臭いものには蓋をして、その上でなんとなーく生きるような人生にはしたくないなと思った。

「こうありたい」と思える自分像に近づくことは簡単なことではない(さらに言えば、辛く苦しいものですらあるだろう)けれど、そこに向かって足掻いている自分のことが、多分、私は好きだ。ある意味で、私の「こうありたい」自分とは、辛いものから逃げずにもがくことのできる自分なのかもしれない。

 

自分で書いていて青臭い文章だとは思ったけれど、こういうものに私はなりたい。

 

 

今日の一曲

最高の応援歌!!


The Pillows LOSTMAN GO TO BUDOKAN Live #3 MY FOOT

 

 

マジョリティの認識についての話

 タイトルが難しい感じになってしまいましたが、この間言語学を専攻する教授から面白い話を聞いたので、ブログに書こうと思いました。思い出しながら書くので、時系列や情報の正確性については保証できませんので悪しからず…

 

ガウディの建築をはじめとした観光資源が日本でも有名で、近年では独立問題についても取り上げられるようになったカタルーニャですが、そこで暮らす人々によく使われる言葉として、カタルーニャ語というものがあります。

このカタルーニャ語は、1936-75年フランコ将軍が独裁をする間、公的な場での使用をずっと禁じられてきました。そのため、この言語を母語とする人たちは、家の中や、または親しい友人たちと話すときにそれを用いるくらいで、当時は「内の」「私的な」言語として人々に認識されていました。反対に、カスティーリャ語スペイン語)は「外の」「公式な」言語としての認識が広まっていました。

月日が流れ、フランコの独裁は彼の死によって終わりを告げましたが、時期を同じくしてカタルーニャで「あなたはカタルーニャ語を使えますか?」という旨の質問が盛り込まれた住民調査があり、そこで「Sí.(はい。)」と答える人の数は非常に少なかったそうです。

しかし、数年後に同じ質問がなされたところ、百万人単位でカタルーニャ語話者が増えていたそうです。学校教育による影響だけでは考えられないような伸び率であったため、言語学者たちは調査対象となった人々が、「私たちの使っているカタルーニャ語カタルーニャ語だったんだ。」と認識できるようになった結果、このような数値の増加につながったのだろうと予測しました。

つまり、「私的な」言語であったカタルーニャ語は、それまで公の場で使われることはなかったため、その話者たちは自分が話している言葉がカタルーニャ語だということに確信を持てずにいました。しかし、独裁後に公的な場での使用が可能になり、カタルーニャ自治政府の市民への働きかけなどが実を結んだ結果、カタルーニャ語が「外の」「公的な」言語としても人々の間で認識されるようになったのです。

ですから、言語政策を行う際には、言語の教育体制を整えることに加えて、その言語を話すことができる人に話しても良いということを認識してもらい、実際に使用してもらうことが大事なのだそうです。

 

話は移りますが、私たちは日常的に日本語を話しています。そして、自分たちの話す言語が日本語だということを疑うことはありません(それを疑うまでに自己省察している方がもしお読みでしたらごめんなさい)。それは何故でしょうか?

理由の一つとして、学校教育の場で「日本語というものはこういうものだよ」ということを小さい時から体系的に教えられているということが挙げられます。考えてみればカタルーニャ語の例も日本語の場合も納得することができますが、マジョリティ側の論理が正当で、当たり前だとされている世界では、こういったことに疑問を抱くこともなかなかできません。

これは言語に限った話ではなく、自分たちが当たり前だと思っていることにも、実は何らかのバイアスがかかっていて、それゆえにその判断において行われた行動には罪悪感といったものが生まれにくいのではないかと思います。自分たちがマジョリティであった場合、私たちの当たり前がマイノリティに押し付けられているかもしれませんし、傷つけてしまっているかもしれません。ですから、本当に相手のことを考えるのならば、まずは自分自身を疑わなければならないのかなと思いました。

 

 

今日の一曲


Qomolangma Tomato - Through Your Reality